2013年8月13日火曜日

人間の條件

正月やGW、夏休みなど、まとまった時間が取れる時に、普段なかなか見ることができない映画を見るようにしていて、今年の夏は古い松竹映画、「人間の條件」を一気に見てしまった。
 前々から見たいと思っていた映画だったのだけど、何しろ長い。第一部から完結編まで全部見ると10時間近い超大作である。もちろん、全部通して一気に見なきゃいけないってもんでもないのだけれど。
とにかくなかなかすごい映画で、今だからこそ、ぜひ多くの人に見てもらいたい映画でもある。
映画評なんて上等なものではないけれど、せっかく見た映画なのだから、見て感じたこと、考えたことなどを並べてみよう。



この映画の公開は、第一部から第四部までが1959年、第五部と最後の第六部が1961年。当然モノクロで、第一部から第四部までは音声もモノラル。この時期は邦画の最盛期でもあって、出演する俳優がまたすごい。当時の主役級のスターが入れ替わり立ち代り登場する…といっても、普通の尺の映画なら4本から5本分ぐらいの長さなので、当然かもしれないけど。

この映画の原作は五味川純平の同名の小説で、太平洋戦争中の満州から戦後のシベリア抑留までが、作者の体験を通じて描かれる。小説の出版は1956年から58年。無名の新人によるこの小説は、最初のうちは特に注目もされていなかったという。
敗戦から約10年という時代を考えると、おそらく戦争体験を共有していたこの時代の多くの日本人が深い共感とともにこの小説を読み、映画を見たのだろう。

この時代はまた、社会主義がまだキラキラしていた時代でもある。60年安保前後の時代だ。映画の中でも特に第五部、第六部には社会主義についての肯定的なセリフも出てくるのだけれど、スターリン主義の不気味さについても表現されているあたりは、当時のスターリニズム批判という時代背景を反映しているのかもしれない。

だけどこの映画のテーマは帝国の軍隊なのであって、あまり社会主義だの共産主義だのというイデオロギーが介入する余地はない。
この作品を通じて語られるのは、軍隊という社会の異様さであり、その中で次第に失われていく人間性であり、平凡な、しかし平和な生活の価値だ。第一部では、絵に描いたような古典的日本の中流階級の生活、主人公とその新妻による幸せな生活が描かれる。そしてその幸せな生活は、軍によって少しずつ壊されていく。

第三部と第四部では、兵舎での生活、前線での戦いが描かれるのだけど、主人公の梶は「悪いのは軍隊なんだ」という。戦争が悪いのでもなく、わけのわからない上官が悪いのでもなく、意地悪な古参兵が悪いのでもなく、「軍隊」というシステムそのものに内在する「悪さ」。最近、日本でも「徴兵制を復活させるべきだ」なんて言っている人たちは、これらのエピソードにどのような反応をするのか、ぜひ聞いてみたい。

主人公の梶はヒューマニストである。だから中国人にも朝鮮人にもわけ隔てなく接する。しかし満州国という傀儡国家、事実上の日本の植民地では、日本人と中国人の間には明らかに壁がある。民族自決だの五族協和だのという満州国建国のスローガンの虚しさであり、彼らがいう「大東亜戦争」の虚しさの根源だ。

ところでこの映画には、今もいろいろ話題になる「慰安婦」や女性に対する戦時性暴力についてのエピソードも登場する。日本や韓国で「従軍慰安婦問題」が公になったのは1970年代で、最近の議論は70年代からの議論なのだけど、1959年に公開されたこの映画に登場する慰安所の描写は興味深い。
第一部、第二部で登場する慰安所や、第五部、第六部で登場する戦時性暴力の場面は、実際と乖離したものではなかったはずだ。1965年に制作された「春婦伝」という映画でも満州の慰安所の様子が描かれているが、そこで描かれる慰安所の風景もよく似ている。
数か月前に橋下徹が慰安所について「当時は誰もが必要だと思っていた」と発言して大騒ぎになった。この映画の中で、ヒューマニストの主人公、梶は「捕虜の脱走を防ぐために女をあてがえ」と言われて当惑する。結局、彼はその言葉が正しかったことを知るわけだが、さて、ぼくはこのエピソードを「当時は誰もがではなく、軍や一部の関係者は必要だと思っていた(あるいは利用の方法を知っていた)」ことを示すものとして見た。また、ここで女を求めていたのは荒ぶる兵士みたいにカッコいいものではなく、異様な環境の中で不満が蓄積している人々だった。第五部や第六部での性暴力のエピソードなどとあわせて考えれば、それは軍や収容所、あるいは戦場のような異様な環境の中に追い込まれ、人間性が麻痺していった人々かもしれない。複雑なのは、そのような異様な環境の中では、また女たちも異様な環境に順応させられていくことだ。そういうことはあるんだろうなと思う。
性暴力に関しては、ロシア兵の方が日本兵よりマシ、というセリフもあったり、日本兵による少女の強姦のエピソードもあったりして、「日本兵は悪いことをしたんだなあ」と思わせたりもするんだが、このあたりについてはどっちがマシかなんてことは考える必要はない。とはいえ、国民を守るはずの兵隊さんが、逆に国民を襲うんだからやってられない。
なお慰安婦が性奴隷だったのかどうかなどの議論に関するエピソードは少ない。このあたりについては、むしろ前述の春婦伝にヒントがあると思う。

何だか話の方向がすっとんでしまったので映画の話に戻そう。
軍隊の中でも主人公の梶はヒューマニストであろうとする。しかし、第三部のヒューマニスト梶は、第四部での戦闘、第五部での敗走、第六部での捕虜生活へと続く流れの中で、人間としてしてはならないことをしなければならない状況に置かれて苦しむ。
「戦争の映画」として知られるこの長い映画の中で、意外にも実際の戦闘のシーンは少ない。第五部で少し描かれるだけで、その戦闘シーンも必死に闘うのだけれど圧倒的な機動力を持つロシア軍の前に全滅させられてしまう。
軍隊での生活も、戦闘も、敗走も、捕虜も、徹底的に格好が悪い。この映画の中にも勇敢な兵士や立派な兵士も登場はするのだけれど、彼らはさっさと死んでしまってあまり印象に残らない。印象に残るのは、臆病な兵士や、悪辣な兵士、脱走する兵士など、いかにもみっともないダメ兵士ばかり。
面白いのは寺田という軍人の息子の役回りで、新兵として入営した当初は父親のような立派な帝国軍人になりたいと思っていて、軟弱そうなヒューマニストの梶を軽蔑しているのだが、次第に梶に感化されていく。しかし本当の強さは、国のために死ぬ強さではなく、家に戻り家族と生きようとすることの強さ、それが梶の強さであることを知る。
映画を見ればわかるだろうが、言うまでもなく、ここでの「家」や「家族」は、自民党が復活を主張しているような「家族制度」 の下の「家」や「家族」なんかとは本来は全然別のもの。むしろ自民党的な「家族」はこの映画で描かれている軍隊のミニチュアだ。ただ、この映画で描かれている梶の新婚家庭は、めいっぱい頑張っているのはわかるんだけど、21世紀の目から見るといかにも古く、自民党が大喜びしそうな家庭になってしまっている。戦時中の時代設定という限界もあってやむを得ないのかもしれないが、映画の舞台になっている時代、この映画が作られた時代、そしてその映画を見ている21世紀という時間をうまいことさばいていくことが求められよう。

人間の安全保障という言葉がある。この映画を見ながら、家族との暮らしを保証することが人間の安全保障ってやつだな、なんて考えていた。そして多くの日本人がばかばかしい戦争での敗戦を経て、家で暮らしていくことがどれほど貴重なことなのかを身に沁みて知った。そんな空気が日本を覆っていたのが1950年代、そして60年代という時代だったんだろう。
今、日本の少なくない人々が、「中国にバカにされている」、「韓国や北朝鮮にバカにされている」と考えているらしい。ちっぽけな岩や島のために、憲法を変えて立派な軍隊を作り、あるいは正体がよくわからない「敵」と闘う用意をしなければならないと考えているらしい。「国益」という言葉もしばしば聞く。誰のものでもない、国のための利益。

この映画は、声高に批判はしない。映画の中で描かれる軍国主義も、兵隊の蛮行も、それらはすべて実際にあった。もちろんフィクションなのだからそれなりのバイアスや演出があるとしても、映画が作られた時代を考えれば、ここで描かれている帝国の軍隊というシステムについての大きな誇張や歪曲はないだろう。そして、多くの日本人が自分の身を持って体験してきたことだった。それは批判するようなものではなく、過去を振り返ることだったんじゃないだろうか。今、この映画を見る人は、先人の体験をスクリーンの中で疑似的に追体験することができるのは幸いだ。

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