2014年10月27日月曜日

「黒と黄」香港雨傘革命について

韓国のチャムセサンに韓国語で紹介されていた文章。とても興味深い内容なので、原文を参照しつつ日本語訳してみた。 米国の「ULTRA」というサイトに掲載されていた"Black versus Yellow/Class Antagonism and Hong Kong's Umbrella Movement"というタイトルの文章で、筆者は「米国のある過激派と匿名の友人(an American ultra and some anonymous friends)」になっている。 チャムセサンの記事は、Ultra-com.orgに掲載された文を「リブコム」というサイトのブログに転載されたものをベースに韓国語に翻訳されたものだが、翻訳調の韓国語は読みにくいのでここではULTRAの原文からチャムセサンの韓国語訳を参考にしながら日本語に翻訳した。
ちなみに、日本語への翻訳について、筆者からの了解などは今のところ取っていない海賊翻訳であることを書き添えておく。この翻訳の利用について著作権的な問い合わせをいただいても答えるのは困難なのでご了解を。

なお、チャムセサンの該当記事は以下の3本に分割されて掲載されている。

黒対黄:香港の雨傘運動と階級的対立


PART 1 歴史 グローバルシティ

さまようショッピング客は湾の反対側の金融街のスカイラインが緑と黄色に光る万華鏡の中に沈む時、自分撮りのポーズを取る。 その下で、ビクトリア港の海水は台風の前兆を見せながら静かに揺れる。 水は波打っているがクルーザーは東アジアで最も華麗なショッピングモールの一つである尖沙咀(チムシャツイ)の埠頭に停泊し、ほとんど動かないようだ。 クルーザーは世界随所の裕福な訪問客が冷暖房施設を備えた安全な環境の中で移動の便を提供する。 ひとまず船から降りると、彼らは日本式バーベキューを食べたり、 20世紀スタイルの植民情緒を売る旧時代の英国風のブティックの磨き上げられた床をすべるように動きながら、 この都市で最も洗練された商店とレストランで免税で金を使う。

埠頭の外では、雨がしとしとと降り始める。 雨のしずくはセルフ写真を撮る彼らのiPhoneにも落ちる。 最近は皆がKポップを聞いているが、若い少女はボーイフレンドの下手くそなギターにあわせて古い広東語の流行歌を歌っている。 人々はぎざぎざの形の香港のコインをカンパ箱に入れる。 風は強くなり始め、マイクで流れる広東語なまりの雑音をかき消す。 彼女の後には遊覧船が白く、そして静かに泊まっている。

これが香港の闘いだ。その香港では広東語の古いラブソングは台風に吹き飛ばされ、 死んだようなクルーザーと金融街のあかりの下、 ショッピングモールが現れる前に消えていく。

ここの光景は、快適なエアコンと警戒線の中で安全を脅かされることなく、資本が 港や銀行、不動産市場を通じてアジア本土を略奪できるように考案された原型的な 「グローバルシティ」で暮らすしたたかな人間と対面する。

長い間、香港はアジアにおける他の西欧の活動拠点とほとんど同じ貧しい植民地の残滓以上ではなかった。 中国本土で革命が起き、産業開発と農業改革のための外国からの支援が革命の防壁としてのこの都市に注ぎ込まれたが、生活水準と福祉はすぐに改善されたわけではなかった。 この植民政権は不安定な社会を統治し、殺到する移民を受け入れるために全力を尽くすやはり暴力的な政権だった。 本土の革命後、数十年間、しばしば暴動が起きた。 1956年の反乱は、大英帝国に対する継続的な衝突の始まりになった。 別の暴動の波は1966年の春に始まり、1年後の1967年の香港蜂起で幕を下ろした。 これは香港の歴史で最大の内部紛争で、警察との間で政府庁舎の爆破や右派メディアへの標的攻撃など、全市的な市街戦を伴う大衆ストライキが起きた。 結局、5千人が投獄され、2千人が有罪判決を受け、多くの共産主義者が中国本土に追放された。

1967年の暴動の後、香港政府は百万人に低価格な国営アパートを提供する植民地改革計画などの福祉事業を始めた。 1950年代以来の製造業の大々的な発展は結局穏やかな賃上げをもたらし、香港は初期の「アジアの虎」経済国の一つとしての地位を確保した。 1980年代になるまで、中国の初の特別経済区域である海の向こうの深センとの地理的な近さ、そして中国本土との歴史的な関係により、香港は新しい開放中国につながる重要なリンクだった。 こうした基礎は文字通り「グローバルシティ」の基盤となった: 世界で最も裕福な人の1人である李嘉誠は、1967年の暴動後に暴落した不動産を買って財産を形成した。 現在も彼らの資産はこの都市の根幹を形成し、李嘉誠は金融街の主な摩天楼だけでなく、港までを所有する世界で最も忙しい人の1人になった。

港と、それを取り巻く金融構造の下で、香港は製造業から1980年代のグローバル資本主義の管理センターとしての役割を果たし始めた。 製造業が中国本土の港町に移転し、香港はこれらの新しい産業ハブを管理し、アジア本土への逆輸出の鍵としての理想的な場所になった。 香港、シンガポールと台湾、そして中国系移民の資本により、多くの新しい中国の工場地帯が作られていった。 現在、アジア系外国人による中国への直接投資は ―日本とパートナー関係にあるか日本資本の代理の[i]― 米国やヨーロッパからの投資を超えている。

今の中国本土と香港との境界の様子は、こうした分断を如実に描きだしている。 深セン側では開発団地が川に沿って急速に延びている: そこには汚染された霧の下の正体不明の、半分は空のアパート群がある。 香港側は、川に沿った緑の木の葉、森に入るだけでも特別許可が必要で、軍隊により守られた境界地域全体がグリーンベルトと農業地域だ。

一見すると、2つの世界は敵対的に見える: 深センは「ポスト産業的な」隣の牧歌的な緑地に対抗して統制や環境とは無関係のように無秩序に拡大している。 だが事実、この敵対は最も深い相互依存を象徴している。 分割された両側は相互に共同で構成される。 深センは香港資本なしでは建設できなかっただろう。 そして香港は深センの工場なしでは決してショッピングモールとオフィスタワーの世界、そして注意深く作られた牧歌的農地を持つことはできなかっただろう。

▲深センと香港の境界

未来なき世代

香港の復興期はベビーブーム世代によって形成された。 彼らの多くは最初は日中戦争の時に、そしてその次は1940年代の後半に国民党と共産党の軍による内戦の時にこの島に避難して来た移住民の子孫だ。 米国とヨーロッパ、そして逆説的には中国本土でのように、この世代は1960年代と1970年代初期にいくつかの反乱を主導した。 しかしベビーブーム世代の運動は、一部の人々が再構造化されたグローバル経済内での安全な地位を代価として、反乱に参加した人々に背を向け、結局は敗北したと定義される。 香港で、これは自由放任的資本主義の世界で最も貴重な実験の一つとなり、今もしばしば保守系の論評家の賞賛を受ける。

だがこれはまたベビーブーム世代の子どもたちへの圧力となる効果をあげた。 深センの全盛期、李嘉誠のように他人の助けを受けずに成り上がった百万長者の例は別として、当時規制されていなかった産業的な食肉処理場で働いていた親に育てられた香港の若い人たちの多くは、魂のないサービス雇用や1997年そして2007年の経済危機に直面している。 最高の大学に入るための過熱競争が強要され、その上、この体制で成功した大学生さえ異常なほどの長時間労働、所得の平均40%を住居費として支出しなければならない惨憺とした雇用を得るために戦わなければならなかった。

今日、香港家計の8.5%は年間100万ドルかそれ以上を稼いでいる。 この都市には世界最大のスーパープライム住宅市場の一つがあるが、 同時に住宅不足は深刻で、住宅価格は天井知らずで金持ちが投資目的で購入した数万軒のアパートは空の状態だ。 またこの都市は世界で一番人口密度が高い地域の一つで、住宅価格はとても高く、多くの若者は30代になっても両親と一緒に暮らさなければならない。 貧しい多くの人々は彼らが旺角(モンコック)や湾仔(ワンチャイ)に出勤しなければならない「新都市」にある公共住宅に追い出される。 他の人々はビルの屋上や路地の隅に建てられた危険で苦るしい小さなスラムを探さなければならない。 50万人以上が文字通り、鳥篭の中で暮らしている。

▲公共住宅の分布:香港の公共住宅の多くは主要都心から遠いニューテリトリーにある新都市にある。

この都市のジニ係数は0.537で先進国で一番不公平な水準であり、人口の20%以上は貧困線以下で暮らしている。 移住労働者は日常的に虐待され、団体交渉は不法で、2010年になるまで最低賃金がなかった。 1時間28香港ドル(約390円)の最低賃金が導入されたが、これはモンコクから空港までの地下鉄運賃にもならない水準だ。 一方、裕福な外国の事業家は、植民地時代に伝染病が流行した時に英国の官僚が逃避するために建設された高級アパートを買える程の金を稼ぐ。

香港はギリシャで起きたような「アノミー的崩壊」ではないが、香港の過剰労働と過消費、そして過度に都市に密集する青年たちは、失業と低賃金などでアテネを離れる青年たちと多くの共通点を持っている。 先が見えない未来の前で、多くの青年は単に出て行くことを決心する。 香港での移住は今、1990年代初めの返還前の大量移民事態[ii]以来、最も速い割合で増加している。 相変らず東アジアでの優越的な地位による相対的に低い失業率(4-5%)にもかかわらず、危機は微妙な信号を送っている: 精神健康サービスのための要求はこの十年間で2倍以上増加した。 香港の文化的な「死」やそして政府の開発に反対するありふれたデモと雪だるまのように強まる本土政府の統制について、人々が普通に話しているのを聞くことも珍しくない。 最近の学生ストライキと中環(セントラル)(そして今は金鐘(アドミラルティ)、旺角(モンコク)、銅鑼湾(コーズウェイベイ)とその他多くの主要地点)での(再)占拠は、こうした一連の出来事の中で現れた最近の現象でしかない。

香港の若年層は労働の分野で特権的な位置にあるが、それにもかかわらず、2007/2008年に始まった金融危機に続き、世界で若い民衆が先頭に立った反乱という同じグローバルなダイナミックスに明確に参加している。 それらの事件に参加する民衆は、正確には彼らの周辺のすべてにぼんやりと現れた経済的、環境的そして社会的な運命を感じ取り、反撃のために選ばれた「未来なき世代」の構成員の「ウルトラ(過激派)」だ。 世界でこうした活動に参加する人々の起源と経験には大きな差異がある。 一部は学生で、一部はストリートチルドレン、サッカーのフーリガンだったりサービス労働者だったりする。 このように異なる背景から出てきたこれらの暴動は、共産主義者の理論集団エンドノーツ(Endnotes)が「典型的に互いに距離を取ってきた階級分派は、別の分派を認めたり、時には共に暮らすことを強制される」という「構成問題(composition problem)」と呼ぶものだ。 問題は、どうすれば運動が「彼らの闘争過程でプロレタリア分派を」、「構成」、「協力」または「団結」させられるのかという問いの中にある。 特に、成長し始めた運動の社会的基盤として多様な経験に直面する時の質問でもある。 多くの人々からの広範囲な共鳴があったとはいえ、最終的に現場ではすでに開始段階にある運動を生産したという結論につながる。

汎民主派と情熱的市民

これらの反乱は、エジプトでも、ギリシャでも、ミズーリでも、潜在的な可能性は大きなものだったが、政治的矛盾と実践経験の不足により力を失った。 ギリシャやスペインのようないくつかの地域には、若者たちが再発見し復活した凝集力のある左派政治の伝統がある。 しかし、それ以外の地域では急速に保守化し、ウクライナやタイのような地域では運動を防御し、拡張し、まとめ上げる能力を持つ極右が圧倒し、不満を抱える世代を引き込んだ。

残念ながら香港は、多くの面で前者より後者に近い。 1967年以後、共産主義指向の左派は大衆的基盤のほとんどを失い、警察により容赦なく解体された。 一方、この国家は労働者、学生などの人々が経済再構造化プロジェクトに参加することの代価として譲歩し始めた。 中国に関し、香港内での冷戦の雰囲気は、中国経済が外国資本に開放された後も続いた。 香港政府は新しく誕生するすべての急進的な小グループに中国問題についての立場を表明することを強制することで、どんな形の共産主義であれ、その蘇生を防いだ。 抗議行動における「暴力」は、今でも必ず本土の中国共産党(CCP)による扇動だと説明される。

結果的に香港のいわゆる「左派」は数十年間、主に本土の「権威主義」に対する「民主主義」というナイーブな談論に支配されてきた。 北京の天安門広場での蜂起により鼓舞され、そして無慈悲な粉砕への恐れにより、香港の急進的学生の多くは1989年以来、「民主主義」のための学生主導運動として主流メディアが描いた天安門を額面通り受け止めた。 北京では、非学生の幅広い参加、北京工人自治連合会の結成、そして学生よりも労働者を重い犯罪として長期間の刑を課すという国家の決定にもかかわらず、運動のメッセージの主導権を握り、政治・経済体制の自由化に向けた要求を西欧のリベラル層に呼び掛けたのは学生たちだった。 イメージは歪められ、その影響はただ香港で増幅された。

最初の直接的な効果は「香港市民支援愛国民主運動連合会」の結成として現れた。 司徒華、李柱銘、李卓人といった人物がここに合流し始めると、すぐに彼らは本土の政府による攻撃を受けた。 2年後の1991年、香港は初めての直接選挙を実施した。この選挙では香港民主同盟[注:中道、1990年創党、1994年民主党に合併]と自由主義的な匯點(ミーティングポイント)[注:中道左派、1983年創党、1994年に民主党に統合]の選挙連合が、小さなリベラル政党の連合と共に地滑り的大勝利をおさめた。 1991年の選挙を契機として「汎民主化」陣営が誕生し、彼らはその後20年間、何回も集合離散を繰り返した。 現在、これらの選挙政党や、知識人、活動家とNGOの緩い連合とともに、「汎民主派」と呼ばれる。 [注:司徒華(市民運動家、九龍東立法議会議員)、李柱銘(弁護士、香港民主党-中道/中道左派、1994年統合民主党、匯點、さらに前線(Frontier)が共同で結成-初代党首)、李卓人(香港労総元事務総長、香港市民支援愛国民主運動連合会元会長)]

汎民主派活動家陣営の中心的な構成員の中には、中国政府の「政治的教育」のための教育課程に抵抗して形成された学民思潮のような中高生の組織と香港の7つの代表的な大学の学生連合が結成した香港大学生連合会(学連、HKFS)がある。 これらの組織は理屈では非常に幅広い基盤を持っていることになっているが、代表はたいてい汎民主派と同じ方針を持ち、改革に対しては合法的かつ紳士的な方式を追求する。 不確かな状況で学生組織がしばしば制度化された汎民主派のグループに行動するよう強制するが、学生の多くはやはり「香港市民」という自負心を持ち、警察がデモ隊を攻撃した時に反撃する人々を非難したりもする。 最近の香港の政治状況に関しても、学連や学民思潮のようなグループは先頭的な役割と共に、最終的には抑圧的な役割をした。 新界の開発に反対するデモから今年の7月1日主権返還記念日に毎年行われるデモの後、少しの間行われた占拠まで、学生グループは抗議を進めるために欠かせなかったが、実際の警察の弾圧に直面すると完全に怖気づいてしまった。

この過程で香港の若い抗議者たちは、イデオロギー的には弱いが資金は十分な汎民主派のリベラル派と、その最右派側の人民力量(ピープルパワー)とその追従者の熱血公民(Civic Passion)周辺の緩やかな集団にまで拡大した。 熱血公民は、公式的には移住問題についてはいかなる立場も持たないが、香港の極右民族主義者を広く受け入れている。 集会で彼らの黄色いTシャツを着たメンバーが移住民(特に本土からの中国人)は出て行けと話している姿はたびたび眼に触れる。

▲右派、熱血公民グループの指導者、黄洋達、背景は中国共産党反対の横断幕

あちこちの民族主義政治とともに、熱血公民は所属国家の言語で階級対立を曖昧にする傾向がある。 政治分析的には、多くの人は、はっきりした左派よりも、むしろロン・ポール[注:米国共和党の政治家]やアレックス・ジョーンズ[注:米国のジャーナリスト]のような人々と似ている。 彼らは香港の未来を収奪する国際資本家階級の本当の役割よりも、この過程で本土の資本家らが演じた役割だけを強調する。 さらに危険なことに、彼らは香港に移住した貧しい多くの本土の中国人(またはあまり豊かではない旅行者)をこの都市のすべての資源を食い尽くそうとするイナゴの群だと表現する。

反中国感情は香港社会の日常生活で可視的に現れるほど、広く認められた非常に大衆的な人種主義の一つの形だ。 北京の直間接的な検閲を受けない少数のメディアの一つである蘋果日報は2012年、香港に近付く巨大なイナゴを描き、「香港のために、本土の親から生まれる子供の世話をするために18分ごとに100香港ドルを払いますか?」という全面広告を掲載した。 今年の初め、100人以上が「反イナゴ」キャンペーンに参加して広東道をデモ行進した。 裕福な本土の観光客が好む高価な宝石店がある一帯で、彼らは「中国に帰れ」、「香港を取り戻せ」と書かれたプラカードを持ち、北京語を話す野次馬を怒鳴りつけた。 社会的な緊張が悪化した時には、こうした日常的なレイシズムは便利なガス抜きの方法であり、 これは抗議者を分裂させると同時に、珠江デルタ[注:中国の珠江河口の広州、香港、マカオを結ぶ三角地帯]からの移民の暴動に彼らが自然に連帯することを防ぐように構造化されている。

▲香港最大の新聞社の一つの反中国人広告

しかし、人々が汎民主派連合の保守主義に幻滅を感じた時、最初の可視的な代案は、戦闘的な行動を厭わない人民力量や熱血公民のような一部の少数グループだった。 若い人たちは、汎民主派の儀式のような集会や政党迎合主義を見ながら、数年でこうしたグループの大衆性は明確に高まった。 最もよく言及される事例にはこのようなものがある。 毎年6月4日、主流の民主党は1989年の天安門広場運動を記念するキャンドル・デモを行う。 熱血公民は例年のキャンドルデモの代案として、さらに戦闘的で、民族主義者(彼らは「地域主義者」と称する)や人種主義スローガンも散見される集会を始めた。 2013年、彼らの代案集会には200人しか参加しなかったが、今年は7000人が集まった。 公式のキャンドルデモははるかに大規模ではあるが、参加者はこの間、数万にまで減っている。

現在の「雨傘革命」では、反中国グループはまた主流から外れたように見える。 だが過去の経験から言えば、汎民主派が行動しないことで動揺し始めた時、戦闘的な青年世代を集めて戦術的な前進を可能にするのは、極右しかなかった。 香港の政治はこれまで数年間、この壁に向かって突き進んできた。

▲雨傘運動の過程で最近、香港全域の壁に貼られたステッカー:「植民主義反対! 新香港人(中国本土からの移民)反対」

OGオキュパイと港湾ストライキ

現在の「オキュパイ・セントラル(Occupy Central、佔領中環)」グループは―厳密に言えば「愛と平和のオキュパイ・セントラル(Occupy Central with Love and Peace、護愛與和平佔領中環、和平佔中)」―、香港で最初のオキュパイ・セントラルの存在を曖昧にする傾向がある。 米国のオキュパイと同時に、香港でも2011年のオキュパイ運動は市内の金融センターを目標として、香港の金融街の心臓部にあるHSBCビルのまわりにテントを張ってデモをした。 オキュパイ・セントラルが2011年の一番古いオキュパイ運動の一つだったとしても(2011年10月に始まり、2012年9月に終わる)、この運動は全盛期でさえ100人程度しか参加せず、他のデモと比べれば小規模なものだった。 それにもかかわらず、これは小さな都市国家における市民蜂起の新しい時代を開くもので、最初のオキュパイ運動の参加者の多くは新界開発に反対したり「雨傘運動」に火をつけた学生休業組織を支援するなど、現在の運動の基礎を作る方向に進んだ。

▲香港の最初のオキュパイ運動

だが最初のオキュパイは、他の多くの運動のように、政治的に混乱していた。 この運動は新しいアナーキストばかりでなく、例のごとくさまざまな陰謀論、短絡的な活動家、そしてもちろんリベラルの一部が混ざり合って激しく揺れ動いた。 政治的にはオキュパイ・ウォールストリートに参加したリベラルが掲げた「政治から金を取り上げろ」という皮相的な批判と基本的に通じる部分はあるが、香港のこうしたリベラルは汎民主派の一種といえる。 これらのリベラルと最初のオキュパイをした人々―若い学者、学生、失業者と家のない人々―は異なる種類のものだったが、最初のオキュパイ運動が撤去された後にマスコミとのコネクションを利用して効果的に再オキュパイの計画を国際的に伝えたのは、オキュパイ・セントラルにほとんど参加しなかった年上のリベラルたちだった。

トーキング・ヘッド3人衆の戴耀廷(Benny Tai)教授、陳健民(Chan Kin-man)教授、朱耀明(Chu Yiu-ming)牧師は一般投票で選出する政府を要求し、一連の集団審議の計画を作り、立法会に提案した。 移住家事労働者などが排除されているにもかかわらず、香港ではこれが「普通選挙権」と見なされた。 3人の指導者たちは、この改革案が受け入れられなければセントラルで大衆的な市民不服従を行うと威嚇し、「非暴力的」で、香港の大多数の人々に反対するものではないことを強調して「愛と平和のオキュパイ・セントラル」という新しい運動を提案した。

▲新しい「愛と平和のオキュパイ」のロゴ

だが新しいオキュパイ・セントラルのグループがオンライン選挙を実施すると(最終的に香港人の10人中1人しか参加しなかった)、オキュパイ反対勢力は都市全域の請願と署名運動を支援に動き、世論調査の結果、多くの人が再占拠を支持していないことが明らかになった。 その後、戴耀廷は実際にオキュパイを行えば、汎民主派に対する「現実的」な市民の露骨な反対が拡大することを恐れ、この運動は「失敗した」と宣言した。 この頃、公共バスの放送広告には流行に敏感な若い香港人から年を取った企業家までが出てきてオキュパイ・セントラル計画は小規模商店の営業と週末のショッピングを破壊するという宣伝が溢れた。 香港の政治家たちは抗議行動で市民社会の支持を失うことを恐れ、ほとんどの運動は事実上、秩序の名で始まる前に抑え込まれてしまった。

また改めてオキュパイというブランドを使ったことは、オリジナルのオキュパイの急進的な視点を新しいリベラルの主張で覆い隠すのに便利でもあった。 外部から見ると、この意味は明確ではないかもしれないが、オリジナルのオキュパイ運動は「未来なき世代」の一部が汎民主派を含む香港の政治全体と秩序を集団で批判する数少ない空間の一つだった。 このオキュパイ運動の中心的なメンバーの一部は、リベラル民主主義に対する明快な批判、つまり香港の「聖牛(資本市場の象徴)」を解体することを主張しさえした ― こうしたことは89年以来、この都市の歴史ではほとんど考えられなかったことだった。 学生や若者の急進的な部分が愛と平和のオキュパイ・セントラルではなく、結局学生ストライキを発議してセントラルばかりでなく、金鐘(アドミラルティ)、銅鑼湾(コーズウェイ・ベイ)や旺角(モンコック)の通りのオキュパイは、このような環境で行われたのだった。

若い民衆が汎民主派の保守派と衝突したのはこれが初めてではない。 2012年に最初のオキュパイが撤去されて緊張が香港で高まり始めた時、新しい敵対が外部に広がり始めた。 2013年3月、香港の葵青コンテナターミナルの労働者の間で大規模なストライキが始まり、これはこの数十年間、香港で最大の労働争議になった。 オリジナルのオキュパイとストライキ、そして現在のデモに直接の関連はないが、それぞれは同じ経済的沈滞と深まる階級敵対によって発生したのは明らかだ。 さらに重要なことは、こうした運動が民衆の一般的な政治意識を変化させ、この新しい認識はこれに続く運動の基盤になったということである。

このストライキは当初、港湾内のクレーン技術者が独立に始めたが、汎民主派の保守派に率いられる香港職工会連盟(HKCTU)と労働党の傘下の香港碼頭業職工会(UHKD、港湾労組)が素早く目をつけた。 交渉を主導する労働組合の代表団により、ストライキ労働者の初期のエネルギーは急速に分散し、多くの労働者へのストライキの拡散は防がれた。 李嘉誠の旗艦会社であるハチソン・ワンポア(和記黄埔)が所有するこの港は、香港のイメージと経済の両方にとって重要だ。 この港が閉鎖されれば、香港と中国本土の最も裕福な資本家の金脈は干上がり、地域経済全体に影響しただろう。 しかし労働組合と労働党はストライキが始まってわずか数日後に、実際に港が閉鎖されるとマスコミ―そして「市民社会」を構成する金持ち―が労働者を攻撃するだろうとし、裁判所の禁止命令を受け入れるようストライキ労働者を説得した。

その後、労働者たちは港湾そのものの占拠ではなく、港外の歩道の片隅にテントを張り、港への進入路の一つの正面で象徴的な封鎖を行った。 世界中のマスコミは「ストライキ」を報道したが、このショーの裏で港は普段よりやや緩慢ではあったが稼動していたのだ。 ストライキの絶頂期にも、この港は相変らず80%の稼働率を示していた。 組合員は港湾労働者のごく一部しかいなかったが、組織された労働者の間で経済的な打撃を強化しようという主張は押しのけられたり無視された。 若い支持者たちは、さらに多くの労働者と接触しようとしたが、労働組合で働くリベラル保守派はやはり彼らを脇に追いやってしまった。

労働組合は道路周辺の占拠によるささいな妨害でも、市民社会(つまりスト基金の主な出資者である)の好みに合わないかもしれないと心配し、すぐにこのテントを片付けてハチソン・ワンポア本社がある市内の長江センター(アドミラルティにある高層ビル)の下に小さな座込場を作った。 その時から「ストライキ参加者」たちは港から遠く離れた市内のビルの前でプラカードを持つ少数の人々になった。 結局、ストライキ労働者の要求は一部分しか勝ち取れず、労働者の多くはストライキを敗北だったと考えた[iii]

その後、多くの報道機関は今回のストライキについて前例がないと描写したが、ストライキに参加した労働者に対してどう感じているかと質問したところ、高齢の労働者たちは1997年の返還以前、労働党が存在せず多くの労組が不法だった時にはこの港で二回のストライキが起きたことを指摘した。 年を取った労働者たちは、他の何よりも優先して市民社会の好みに合わせて訴えるよう押し付ける労働組合や政党代表がいなかった時のストライキの方が、実際にはるかに成功的だったと主張した。 だから彼らはただ山猫ストに参加して実際に港の機能をマヒさせ、そうして主要な要求を勝ち取った。 それと較べ、最近のストライキは惨めな負けだった。

PART 2 現在 雨傘を持て[iv]

この港湾ストライキは「雨傘運動」を理解するための重要な先駆けだ。 現在のオキュパイは疑いなくこれと同じジレンマに直面している。 ストライキ労働者のように、彼らは市民社会に訴えるか、あるいは経済的な妨害を強めるかという質問の間で膠着状態に陥っている。 運動内部の分裂がこれを示している。 若い抗議者の多くは「愛と平和のオキュパイ・セントラル」の幹部に反対している。 陳健民教授は梁振英行政長官が辞任すれば封鎖を終わらせようと言い、強い批判を受けた。 だが彼らのような若い人々は、いかなる財産上の損失もあってはならず、警察が攻撃しても反撃するなと言って、民主主義、普通選挙権と非暴力に関する大衆的な言葉をオウムのように繰り返している。

▲非暴力を行使して民主主義のためにだけ戦おうと提案する張り紙

「秩序」に対する奴隷根性は、抗議者たちをデッドゾーンに閉じ込めようとする。 多くの人は私有財産の侵害を不当だと考えるので、このデッドゾーンの中では運動に力を付与する経済的妨害をエスカレートさせることができない。 結局こうした方式の抗議は、政府にとって楽な形で自然に消滅するか、行政官の辞任といった小さな譲歩を勝ち取って満足せざるを得ない。 この難題を知りつつも、多くの人は一様に暴力集団[v]がこの島を軍事占領するための口実を作り、北京に命令を出させるために状況をエスカレートさせようとしている(という噂)を心配している。
ここで興味深い矛盾が発生する。 デモに潜在する民族主義は、「香港人」である警察は味方であり、潜在的な未来の参加者だと見なしているのに対し、軍事介入は、警察と同じ戦術を使ったとしても、一般的に拒否する。 これは結局、北京による香港の政治家のコントロール以上に、軍隊そのものが北京の直接の命令下にある本土の人によって構成されているということが問題だということだ。 しかし抗議者たちにとって、これはいかなる種類の論理的な矛盾もない。 多くの人々は警察と戦ったり逮捕に抵抗するのは逆効果だという立場を固持しているが、軍隊に抵抗するために暴力戦術を使うことは全く正当だと主張している。

▲モンコクのあるバリケード

▲モンコクでデモ隊が放置された公共交通バスにメッセージを貼り付けている。このバスには1978-1981年の「民主の壁運動」の「西単民主墙」を連想させる「民主墙(民主の壁)」の文字が見える。
 
▲モンコクのあるバリケードには警察の進入を防ぐために2台の車両が停められている。3日に追加された車両の1台は簡単に撤去できないように車輪が取り外された。当時、占拠者は救急車と消防車が通るたびにバリケードを開いていた。だが2日、アドミラルティで警察は救急車のためにバリケードを開いた時、占拠空間に進入してゴム弾と催涙ガスを投入したため、その後デモ隊はこの車両の車輪を外した。

ポピュリスト的な視点は、すべての衝突の原因を外部的な人種や国籍、または単に移民の身分といった問題におしつけ、民衆の内部的な敵対についての認識を遮る。 こうしたポピュリズムが優勢になると、一部の抗議者の暴動、財産の破壊そして「無礼」といったことさえも、「外部の人たち」、この場合は中国本土の人によるものとして片付けられ、少なくとも彼らが一般的な存在になるまで主張し続けるだろう。 だがストライキは既存の社会内部の階級的敵対を表面化するものであるため、そのようなポピュリストの論理を打ち破る性質を持っている。

現在のこの運動を前進させる道は極めて限られており、多くの経路は敗北につながる。 抗議者たちの戦術的停滞は、抗議者たちが行動しないことが一般参加者から見れば彼らが正当ではないかのように映るため、政府はただ彼らがいなくなるのを待つようにさせかねない。 すでに新しい参加者は運動に力がなく、ただ漂流しているようだと不平を言っている。 この反乱はうまくいっても一回だけの失敗した「社会運動」になりかねない。 市民社会の前に広がる不毛の光景は、貧しい人ではなく将来のNGO指導者や政治家しかいない。 最悪の場合には、香港の民衆は何の統制力もなく、インフレ、不平等と窮乏は少しも改善されることなく続く体制への参加だけが認められる一般投票権で終わるかもしれない[vi]

しかしこのような状況で、敗北は右翼の復活につながる危険がある。 極右がこの抗議行動を動かす力を得れば、この運動は全体的に民族主義に向かって進むことになるだろう。 この運動初期から「究極の普通」になり、活動力のない「レフティスト・プリックス[vii]」を攻撃するビラと言説を配って歩く熱血公民のようなレイシスト政治集団を多くの人々が認めようが認めまいが、現在の「反乱の時代」において右翼は人々を引き付ける。 彼らは最近、モンコクのバリケード(アナキストが作ったバリケード)を守っていた黄色いシャツのメンバーを「青リボン(親中国デモ隊)」が破壊しようとしてから目につき始めた。 この状況はウクライナの惨めな経験と似ている。 極右は西欧の方を向く資本家同盟の突撃隊のような行動をした。


▲「青リボン」が2日に解散を試みたことでモンコクのバリケードに集まる熱血公民会員の小グループ。バリケードの防衛は右派の役割というわけではないが、光州への露出度を高めようとしているらしい。彼らのシャツには英語で、「プロレタリア」と書かれていた。極右または「第3者主義(third positionist)」グループ[注:マルクス主義や資本主義反対を強調する革命的民族主義者。ネオファシズム、民族アナーキズム、民族ボルシェビズムなど]は左派の用語を簒奪して使う。

▲レフティスト・プリックスを信じるな
解散(するようにする要請)を警戒しろ
われわれがしているのはパーティーではなく市民不服従であることを忘れるな!!!
私たちが望むものは真の普通選挙だ!!!
カラオケ禁止
記念写真禁止
まだ勝利していない
指導者禁止
小グループ討論(リベラルのよるグループ討論のこと)禁止

「民主主義」の問題ではない

だが敗北は決して避けられないわけではない。 最近の香港のどこにでもいるような若者たちは、彼らの未来が奪われていることを認識しつつあり、なぜ彼らがこの位置に置かれているのか、そしてどうすれば反撃できるのかを知ろうとしている。 巨大な隣の本土への統合が進むにつれ、中国は小さな都市国家の香港にとってまさに「未来」だ[viii]。 これは青年世代にとって、中国もまた不吉な未来を予感させるものの一つであることを意味している。

運動が止まっていることに不満を持つ若い抗議者は多いが、彼らを押し進めるには孤立感と無力感がある。 特に、夜になると怒った献身的な若い人たちがたくさん出てくるが、彼らをつなぎ、活動をまとめていく方法はなさそうだ。 さらに重要なことは、これらの抗議者たちは彼らの怒りを「民主主義」と「普通選挙権」の言語に翻訳する傾向があるが、境界を越えて珠江デルタの工場労働者たちとの連帯を見つけることには失敗しているということだ。

だが汎民主派の専門用語がこの運動の共通言語であるという事実にもかかわらず、この運動自体は、多くの人々にとってリベラルな「民主主義」とはほとんど関係がないのは明らかだ。 実際に、ほとんどの討論で抗議者たちが実際に望んでいることは、早く他の領域に突入したいということだ。 もし彼らの目標について質問すれば、多くの人々はオウムのように同じことを言うだろう―社会的階層や世代を問わず信じられない程に一貫している。 だが彼らが「なぜ」それを望むのかと強く問えば、多くの抗議者たちはすぐ、単なる政治的な問題ではなく、経済的な問題へとジャンプするのだ。

人々は天井知らずの賃貸料と非人間的な水準の不平等、食費と交通費のインフレ、そして社会の底辺の膨大な人々を簡単に無視する政府を嘆く。 自由発言台に立つ人は誰もが「なぜ香港に金持ちは一握りで、貧しい人はこれほど多いのか? 私たちに民主主義がないからだ!」と―単なる間違いだとしても―主張する。 多くの人々は、リベラル民主主義が実際にギリシャや米国のような所でいかに機能したのかについて、底抜けに貧しい知識により、自分たちの指導者を「選出」できるようになれば、その指導者がインフレや貧困、金融投機といった広範囲な問題を解決してくれると主張する。 そして民主主義は、一般投票制度をいかに実行するかを考える議論ではなく、すべての社会的な病を癒やす万病薬の一種として扱われている。


▲中年のある男性(香港出身だが、数十年間海外で暮らし、親戚を訪問するために戻った)は、銅鑼湾のバリケードの前で写真撮影をした。彼の左には「民主」と書かれている(彼の後ろには「レフティスト・プリックス」を警告する別のポスターがある)。彼はデモ隊が交通と社会秩序を妨害することは同意しないが、警察がデモ隊に多くの催涙ガスを使っていると考える。そして彼は今、1989年スタイルの流血事態が起きるのではないかと心配している。

しかしこの運動のポピュリストと民主主義に関する幻想は、ともに不安定になりかねない。 占拠運動がさらに包括的な人々に広がり、新しい参加者が彼ら自身の要求をバリケードに持ち込んでいる。 学連(HKFS)の幹部をはじめとする、本来リベラルな学生の一部は、ますますそのために不満を感じ、普通選挙権の要求に集中することを促す案内文を出している。 インタビューに応じてくれた人たちは、この運動が「混乱」し、選挙改革のための闘争ではなく、学生を攻撃する警察に抵抗する多くの新しい抗議者により「拡散」してしまうのではないかと憂慮した。 だが新しい要求は、選挙についてのありふれた要求の領域を越えて広がり、実際にこの運動に再点火する可能性がある。 一般的に、この運動を発議した人々から遠く離れた階級が合流することは、「拡散」ではなく、むしろこの運動を押し進める力を増幅する一種の位相の変化を知らせる信号だ。


▲「一点」に留まり、選挙改革以外の要求をしないように訴える張り紙

一つ特に注目すべき可能性は、労働者たちの参加が増加していることだ。 比較的小さい香港職工会連盟(HKCTU)は10月1日(中国の「国慶日」)のゼネストを呼びかけ、少なくとも一部の労働者がこの呼びかけに応じた[ix]。 以前の港湾ストライキに参加した何人かの港湾労働者も、港湾ストライキは「不可能」だろうとしつつも、デモに参加して抗議活動への支持を表明した。 だが路上のオキュパイ運動が成長していることにより、旺角のような住宅地では、他の労働者が参加する可能性がますます高まっている。

オキュパイをゼネストに拡大すれば、ポピュリストの仮説に疑問を提起するだけでなく、運動の排他的な政治的な要求をも本質的に不安定にする効果をあげるだろう。 例えば、港湾労働者が2回目のストライキを発議すれば、労働者の日常と若い世代の未来を略奪することについての李嘉誠など香港の資本家の責任は否定できなくなるだろう。 この対立を本土の中国人に転嫁することは単に不可能になる。 香港内部の二つの階級の敵対はますます否定できなくなり、デモは無抵抗の道を断ち切って危険であると同時に希望の未来に向かうだろう。


台風

尖沙咀(チムシャツイ)は現在占拠されているが、右翼勢力が強いといううわさがある。 バリケードはショッピングモールの外に作られ、群衆は傘の下に集まってぼんやりしたクルーザーの形の下でこの運動の未来を議論している。 右翼はクルーザーは今や本土の資本家で満杯になったと誇張しているが、左翼はそう言うことができないようだ。 下手くそなギターにあわせて広東語でラブソングを歌っていたあの少女はもういなくなり、どこかで観光客案内の看板と交通表示板でバリケードを作っているかもしれない。 だがその歌は今、人々の希望という形で空のバスと雨にぬれた政府庁舎にまとわりつき、都市全体へと拡大している。

台風がやってきて、海は激しく波打っている。 もうこのクルーザーがあとどれほど都市の上にいられるのかは分からない。 クルーザーの裕福な乗客、中国本土であれ、どこであれ、他の人からは見えないが警察の阻止線と白い壁の後で静かに座っている。 埠頭が占拠されれば、この港はどうなるのだろうか? 秩序という香港のみじめな奴隷根性、この運動の近視眼的な要求とひどいポピュリズムにもかかわらず、少なくとも今後、「香港はもう以前と同じではない」という点だけは明らかだ。 現在の状況を支える可能性はもはやないという事実はむしろ、この運動に潜在性があるということを確信させる。 仮にこの運動が敗北してもだ。

台風は本来、混沌の被造物であり、この島が洪水になれば、状況はさらに悪化するかもしれない。 だがこの混乱にはまたある種の約束がある。 現在の状態の破壊は、以前は全くの運命以上ではないと思われていた、この先のかすかな可能性を断ちきってしまう。 突破口はある。 恐らく人々は雨の中でも、突破口に向けてどう航海していくのかを学び始めている。 そして雨が何年も続いたとしても、人々には雨傘がある。


―ある米国の過激派と数人の匿名の友人

[脚注]
[i] 中国の経済開放の詳しい歴史と20世紀後半の東アジア資本の役割についてはジョバンニ・アリジの次の論文を参照のこと。“China's Market Economy in the Long Run,” in China and the Transformation of Global Capitalism, edited by Ho-fung Hung. John’s Hopkins University Press, 2009. p.22.

[ii] 現在の移民は、毎日6万人が出国した1990年代初期よりはるかに低いレベルである点に注意。

[iii] この情報は、香港のオリジナルのオキュパイ運動参加者によるストライキの初期に数日感労働者と一緒にいた多くの人とのインタビューを通じて得られたものである。

[iv] 最後のいくつかの部分の情報の多くはインタビューおよび政治分派について調べるために、私たちが現場で会った人々への直接調査により構成された。私たちが会った人の一部は初期の学生ストに参加していた。他の人々は警察の鎮圧後に参加した。直接調査で集めた情報の質により、これらのセクションではリンクや引用をつけず、インタビュー引用符号だけをつけて提供されている。

[v] 香港の組織ギャングの多くは現在、香港政府と協力して北京の利害に寄与する「愛国的」人物だ。しかしこれは一般的な真実ではない。北京が支援するギャングに関するうわさは、バリケードを作るためにデモ隊と協力したモンコクのギャングに対する報道に対抗して急増した。

[vi] もちろん今後、香港の民主主義が究極的には改良主義政治の限界を越える方式で階級敵対が蘇生する政治的空間を作るという主張に異議はあるだろう。これは本質的に(私たちが集められる限り)レフト21[注:香港の左派組織]のような一部のグループの主張だ。しかしこれは率直な立場ではない。基本的に妄想を続けさせ、敵対に対する認識を無制限に延期させる。一般的に「適当な時間」に行動を延期することは、単に完全に行動に反対する一つの方法だ。

[vii] 文言としては「左膠」、「レフト・ペニス」という広東語で(ほとんど見ることのない)小規模な左派グループよりも汎民主派指導部についての言葉だ。膠の文字は「にかわ」の意味だが、広東語で膠と鳩の発音が共通していることから、婉曲的に陰茎を意味するために使われる(「鳩」は陰茎の隠語)。「レフティスト・プリック」という言葉はこの数日で広く使われるようになった。この都市のすべての主な占拠地域で繰り返し聞くことができる。その上、左派も汎民主派に対して良い意味の、ちょっとした悪口としてこれを使っている。この用語を使ったとしても本質的に悪いわけではない。一部の敏感な左派は必然的に怒るが、問題は右翼がこの運動の全体に受け入れられるスローガンを鋳造してばらまいていることだ。このスローガンが(または美学でも戦術など何でも)一般化すれば、これは右翼を事実上の指導的位置につけることになる。

[viii] 1997年の中国政府への英国植民政権の香港返還は、アジア金融危機と同時に起き、中国もまたこの危機が引き起こした香港の経済沈滞に不合理に関連付けた。

[ix] あいまいだが、しかし「1万ストライキ労働者」という主張がどんな現実的な根拠を持つとしても、国慶日はとにかく全国的な休日なので、労働者は働きに行く必要がない。休日だったので、休日に多くの人々は単にオキュパイ運動に参加した。だがこれは「ストライキ」ではない。

以上

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